日本のFXの生みの親ともいえる猪首秀明さん。
FXの黎明期とそれからの経緯に精通する「生き証人」に、現在のFXに対する思いや問題点を語っていただきました。
ネットに流布する詐欺や誤った情報、そして海外FX業者についての警鐘を鳴らし、本当の意味での金融リテラシーとは何かを教えていただきます。
猪首秀明(いくび ひであき)氏プロフィール
1998年の外為法改正に伴い、ひまわり証券時代に日本初となる外国為替証拠金取引(FX)を商品化させ、その普及に貢献する。2012年に東岳証券の代表取締役に就任。2022年からはWikiFX Japan株式会社顧問の他、複数のFX関連企業の顧問を兼任。延べ3000人を超える個人投資家と接した経験から、個人向けの金融トレード運用アドバイザーとしても活動中。【著書】FX初心者でも問題なし! MT4自動売買スタートマニュアル
聞き手◉鹿内武蔵 本文◉田中タスク
外為業務の自由化に伴い日本でFXが産声を上げる
─猪首さんが関わられた、日本でのFX誕生の経緯について教えていただけますか。
猪首 日本でFXの取り扱いが始まったのは、1998年になります。それ以前から、海外では欧米などでFXは存在しており、活発に取引がされていました。私が外国為替証拠金取引の存在を知ったのは、1995年~1996年だったと思いますが、とある投資専門雑誌で、海外での金融(トレード)商品が紹介されている記事を読んだことです。たまたまこの記事の執筆者が私の知人だったこともあり、直接連絡して詳細を教えてもらいました。
世界最大の取引量を持つ金融マーケットであり、株や先物取引の取引所取引には無い24時間連続取引が可能。それを個人投資家でも証拠金を使って気軽に取引ができる。こんな魅力的なトレード商品が日本でもできたらいいのになあと、羨ましく感じたものです。
当時の外為法では、通貨の交換業務を行えるのは、特定の銀行だけに限られていたんですよ。それが1998年4月の外為法の改正により、外為法の実質自由化になったんです。「これって日本でもFXを商品化できるのでは?」ということで、当時私が所属していたダイワフューチャーズ(商品先物会社)の社内で協議をし、開発チームが発足しました。約半年間の開発と準備期間を要し、1998年10月8日に日本初となる外国為替証拠金取引「マージンFX」のサービスが誕生しました。今から25年前のことです。
─猪首さんご自身は、その時点で商品先物の世界に長くおられたんですか?
猪首 私が相場の世界に入ってから、今年で40周年です。スタートは商品先物会社で、先ほど名前を挙げたダイワフューチャーズです。このダイワフューチャーズが金融庁への証券業登録をし、ひまわり証券になり、今もFX業務を継続しています。
私もそうですが、ダイワフューチャーズもまさかFXが今のような大きなマーケットになるとは全く想像していませんでした。商品先物会社なので、大豆やゴム、金などの先物取引を扱っていたわけですが、その銘柄が一つ増えたくらいの感覚です。ただ、為替相場のニュースは一般のニュースでも毎日流れていますし、事業として成長するのではないかとの期待感はありましたけどね。
「ナントカ記念日」みたいな情報では、ダイワフューチャーズが日本で初めてFXを始めたという記録になっていて、その日が記念日になっているそうですよ。
─FXという名称はいつから使われるようになったのですか? 最初からあったわけではないですよね。
猪首 私たちが始めたFXのサービス名は、「マージンFX」でした。この名前にあるように、最初からFXという名称は使っていました。なので、外国為替証拠金取引をFXと名づけたのは当時のダイワフューチャーズということになります。
─FXが普及し始めたころの様子を教えてください。
猪首 最初は知ってもらうことが先決だったので、PR活動のために日本全国を行脚していました。それが2年間くらい続いたと思います。その成果に加えて、ネットが普及してきたことでFXの認知度も高まっていきました。株のネット取引が広がり始めた時期でもあったので、時流に乗れた部分もあったんでしょうね。
このころから、同業他社の参入も相次ぎました。ダイワフューチャーズと同様に、商品先物会社にとって、先物取引の証拠金取引という仕組みとレバレッジがあるFXの仕組みは親和性が高いので、なじみやすかったのだと思います。
─2003年あたりから本格的に普及が進んできたとのことですが、当時の投資家はどんな人が多かったんですか?
猪首 トレードで利益を狙うというより、スワップポイント狙いの人が多かった印象です。外貨預金よりもコストが安いことが魅力的に見えたんじゃないでしょうか。両替で片道1円かかる(ドル円の場合)外貨預金と比べたら、当時のダイワフューチャーズのスペックでも低コストだったのは確かです。
─当時のFXは、どんなスペックだったんですか?
猪首 最低取引単位は10万通貨で、スプレッドは5pipsです。そこに外付けの手数料が片道1万円です。10万通貨だと実質的に15pipsですね。
─思っていたよりも高くはない印象です。当時主流だった電話での株取引のコストを考えると、もっとエグいと思っていました。
猪首 当時「そんな安い手数料で商売になるのか?」と、お客様から心配されたものです(笑)。口座開設の条件も今より厳しくて、最低でも預託金が300万円必要でした。大切に育てたい商品だったので、基本的に資金力のない人は来ないで、というスタンスでしたね。
というのも、そのころの商品先物業界は、滅茶苦茶行儀が悪かったですから(笑)。お客さんから預かったお金は、最終的に溶かすまでやってもらうというスタンスだったところも多くて。しかもそれを営業マンの強引な勧誘でやっていたのですから、今では考えられないです。
FX会社にはA-Book(NDD)とB-Book(相対取引)がありますよね。当時の商品先物会社はB勘定といって、FX会社のB-Bookに相当する仕組みになっているところがほとんど。つまりお客さんとは利益相反するので、お客さんが損をするほど会社が儲かるわけです。お客さんが潰れるまで損をすると、会社の利益は最も大きくなります。
─そのころと比べると、今はある意味進化していますね。
猪首 FX業界は健全化が進んで、イメージ戦略も功を奏していると思います。乱暴だった業界ほどクリーンなイメージを前面に打ち出すじゃないですか、例えば不動産会社やパチンコ台のメーカーとか。FX会社がイメージ戦略の一環で洗練されたビルに入居して本社を構えるのも、その一環なのかなと。
─でも、当時の商品先物業界では全く違う景色が広がっていたということですよね。
猪首 皮肉なことに、行儀の悪い会社ほど業績を伸ばして上場を果たすという世界でした。逆に真面目にやっている会社も何社かあったんですが、そういう会社は生き残れなかったんです。「真面目にやる」といっても、お客さんのいうとおりに注文を出す、それだけです。このようにお客さんの意向どおりの仕事をする会社のことは、「切手屋」と呼ばれていたんです。郵便局の職員は、いわれたとおりの切手しか売りませんよね。行儀の悪い郵便局員がいて切手1枚を買いたいのに10枚を売りつけてくる、なんてことはありません。
また、顧客から預かった証拠金の全額で、1度のトレードでポジションを持たせたりとか。顧客の意向に反して、自社の利益だけを追求する会社は「大衆殺し店」、なんて呼ばれていましたね。
結局こうした会社はどんどん淘汰されて、10分の1くらいに減ったのではないかと思います。
─そんな状況だけに、新たに登場したFXは商品先物業界にとって救世主だったわけですね。
猪首 自由化されたことで、商品先物業界からの参入が相次ぎました。それどころか、金融(トレード関係ビジネス)とは全く縁もゆかりもなかった一個人の素人さんが、個人で零細な個人商店レベルでFX会社を始めるケースまで出てきました。特に参入が多くて目立っていたのが、反社会勢力からの参入です。
暴対法による締め付けやバブル崩壊後に発覚した大手証券会社の損失補填問題などもあって、証券会社とも組めなくなった彼らにとっても、FXは救世主だったのでしょう。彼らはお金を取り扱うのも、刈り取るのもうまいですから。
─ギャンブルの取り扱いもうまいですしね。
猪首 FXをギャンブル扱いすることには賛否がありますが、勝ち負けがあるのは事実です。ある意味ではギャンブルっぽい部分もあるので、彼らにとっては与しやすい世界だったと思います。
しかし、当然トラブルは多くなります。トラブルが多発していることを受けて金融庁がFXを監督するようになると、反社勢力は退場を余儀なくされました。しかし、彼らにとって新たな「シノギ」であるFXを簡単に手放したくはないはず。そこで活路を見いだしたのが海外でした。海外にFX会社を設立して、ネット経由で日本人をターゲットとしたビジネスにシフトしたわけです。現在、海外FX業者として無登録営業している業者のほとんどは、日本人が海外に出て行き、現地の人を代表に据えて設立されたものです。日本におけるFXの健全化は進みましたが、国内の健全化が進むほど海外FXのリスクが高まった構図です。
─黎明期のFXは、金融庁の監督下にはなかったんですか?
猪首 そうなんです。私たちもダイワフューチャーズでFX取引サービスを始めるのにあたって、金融庁にお伺いを立てに行ったんです。金融庁の回答は「今の日本にはFXを監督する法律がないので、一般事業会社として始めてください」というものでした。つまり、黎明期のFXは誰が何をやってもいい状態でした。
─金融庁の監督下になって規制が強化され、FXはどう変わっていきましたか?
猪首 規制強化で一番影響が大きかったのは、レバレッジ規制ですね。それまでは300倍、400倍なんて当たり前でしたから。それがある日突然、上限50倍になり、その後25倍です。急なことだったので業界内での反発も、投資家からの反発もありました。しかし、金融庁はその規制を断行。その結果、レバレッジ規制を逃れるために一部の投資家が海外FXに流れたというのはあると思います。ハイレバレッジ取引を希望している人にとって、日本語でサービスが受けられて日本の規制を受けない海外FXは魅力的に映るでしょうから。
第2の黎明期での勝者はIT企業
─FXは投資商品なので、証券業界からも積極的な参入はあったと思うのですが、実際はどうでしたか?
猪首 自分たちが始めた当初からは想像もつかないほど参入業者は増えました。もちろん証券会社も入ってくると思っていました。最初に参入したのは松井証券で、次にオリックス証券。オリックス証券はすでに廃業していますけど、松井証券は社長の知名度の高さもあって、積極的に展開していたことが脅威にも感じました。
しかも、その後から大手証券会社も続々と参入してくるではないですか。日本を代表するような証券会社が参入してきて、これまで積み上げてきたものが全部取られてしまうのでは、と思ったものです。
しかし、現実は違いました。証券会社とは全く違う業種の会社が伸びました。
─IT業界ですね。
猪首 そうです。GMOとかDMMとかライブドアとか…。特にこの3社はずば抜けていたと思いました。商品先物業界では、少なくとも小金持ち以上の人を対象にするのが常識でした。こういうと語弊がありますが、若い人は資金力のない人が多いということで、ターゲットにすることはあまりなかったんです。しかし、IT業界はそういう常識にとらわれることなく、若いユーザーをうまく取り込みました。1人あたりの単価は低くても数を集めることに注力したわけです。これが功を奏して、IT企業がFX業界の主役になったのです。
ひまわり証券はその中でも比較的こういった流れにうまく乗れた方だと思いますが、FXの黎明期にそんな発想はなかったですね。しかしこのことは、FX業界の健全化に一役買っているとも思います。お客さんと同じ方向を向くことができていますし。
─お客さんと同じ方向を向くことの大切さについて、そう考えるようになった経緯を教えてください。
猪首 長らく商品先物業界に身を置いていましたが、従来のスタイルが嫌で嫌で仕方なかったんです。会社が儲かるためにお客さんに損をさせるようなスタイルに未来はないと感じていました。
そんな私が営業スタイルとして魅力を見いだしていたのが、実をいうとパチンコ業界なんです。確かにギャンブル産業ではありますが、お客さんは、どのパチンコ屋に入るのも、どの台を選ぶのも、どれだけお金を使うのかも、すべてお客さんが決めることです。店員さんから誘導されることも、強要される(苦笑)こともないわけです。
それを何度も会社に具申していたので上からはうるさがられていましたが、一つの店を任せてもらうという話になりまして。当時の主流だったワープロソフト「一太郎」を使って、手作り感いっぱいのチラシを虎ノ門周辺で配りましたね。やっていると少しずつ来店客も増えてきて、手応えも感じられました。周辺は官公庁も多いので、来店客の中には某中央官庁の運用担当や検査官もいました。
このようにお客さんと同じ方向を目指す営業スタイルの確立は、自分自身の黎明期になりましたね。
■後編(2023年12月発売の外国為替vol.8)はこちら
FX雑誌「外国為替」vol.13
発売:2024年10月22日(火)
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